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人との出会いが人間をつくる

執筆者の写真: 博重 小林博重 小林


田中真澄先生から、上梓された彼の99冊目の著書『大谷翔平に見る商売繁盛の基本』〜私は、一人の若者に、私が希求してきた商売の大本を見た!〜(パルス出版)をご恵贈いただいた。



大谷選手は、而立(30歳)前のあの若さでありながら、いつも明るく、何事にも前向きで、絶対積極である人生に対する生き方の姿勢は、七転八倒して苦労を磨き砂にしてやっと到達するであろう"人生の達人"の域にまで、すでに到達している。まさに野球のみならず、人生においても"超人"ではないかと思う。非の打ち所がない彼から学ぶことが極めて多いのはこの私だけではないだろう。田中先生も、昔から説かれておられた人生に対するあるべき姿勢を大谷選手の中に見られたのだろう。


《目次》

序章 大谷翔平が体現している商売繁盛の基本体系


第1章 大谷翔平は日本の伝統が生んだ賜物

①日本人は良い習慣を大切にしてきた民族

②周りの人のために頑張るのが日本人

③良い習慣の訓練で最適の場は家庭

④商売は善悪が先で損得は後

⑤大谷翔平は「商売繁盛の基本」の実戦者


第2章 人生を成功させる2つの原則

①大谷翔平に見る2つの原則

②良い習慣を守り続けた人は人生に満足している

③自己成長に終わりなし

④大切にすべきは私たちが皆持っている3つの財産

⑤3つの平等な財産の関係性とその活用


第3章 時間の有効活用による専門力の形成

①自分の得手開発に時間の集中投下

②大谷翔平の生き方に見る努力の方向

③「一専」そして「多能」の生き方に意識を向ける

④中途半端な生き方がいちばん損!

⑤「レストラン花の木」の存在価値に学ぶ


第4章 ことばの有効活用で形成する対人力

①ことばには「言語」と「非言語」がある

②大谷翔平は非言語活用の優等生

③連絡マメの人間を目指そう

④何事も即時対応する人に世間の信頼は集まる

⑤大谷翔平の振りを見れば商売繁盛のコツがわかる


第5章 「こころ」の有効活用

①心構え(心を作る習慣)は人間力の機関車 

②心構えを作る習慣について検討する

③積極性の心構えを作る行動の習慣

④積極性の心構えを作る考え方の習慣

⑤明朗性の心構えを作る行動の習慣

⑥明朗性の心構えを作る考え方の習慣

⑦利他性の心構えを作る行動の習慣

⑧利他性の心構えを作る考え方の習慣


おわりに

〜結局は良い習慣と心構え〜

田中先生と私の最初の出会いは、私が安田信託銀行で神戸支店から人事本部(人事教育部)に異動して、入社1年目の総合職員の研修を担当した時ではなかったかと思う。今から40年前の昭和60年(1985年)、私が入社9年目の32歳の時だった。私の上司は、銀行員とは思えない、ユニークで型破りの発想の人だった。だからこそ、田中先生を新入社員研修の講師にお呼びしたのだろうと思う。


田中真澄先生は福岡県大牟田市出身。現在、88歳の米寿を迎えられて、現役バリバリである。東京教育大学(現筑波大学)を卒業され、日本経済新聞社に入社。日経マグロウヒル社(現日経BP社)を経て、昭和54年、43歳で独立。以来45年に亙り、社会教育家として講演と執筆を通じて多くの人たちにやる気を起こさせ、生きる勇気と感動を与えてくださっている。今回お送りいただいた著書は99冊目である。


田中先生の新入社員向けの熱誠講演は、新入社員のみならず、初めて銀行の人事教育に携わった私にとっても驚天動地の感動物だった。単なる社会人として生きていくノウハウ論ではなく、人生の本質論だった。「長い人生を如何に生き生きと生きていくか」、「人間にとって幸せとは何か」を考えさせられる素晴らしい講演だった。銀行に入社し、10年近くが経っていた。会社の皆さんに、「小林さんは、将来の安田信託銀行を支えていく人物だ。その素養を有り余るほど持っている。将来の社長候補だ」と煽てられ、有頂天になっていた。そして、一歩づつ出世の階段を昇っていくことが、いつの間にか私の人生の目的になっていた。


田中先生は、「"寄らば大樹"のサラリーマン根性で生きてはダメだ。年中無休、24時間営業の個人事業主の精神を持つことが、"幸せな人生"をつくっていく」ということを、言葉だけではなく、全身を使って、汗だくになって表現された。まさに"熱誠講演"だ。こんな迫力ある講演を私は今の今まで聴いたことがない。それからずっと、"どんな生き方スタイルが私に相応しいのか"、そのことが頭を離れなかった。そして、機会がある毎に田中先生の講演を、何度もリアルで聴いた。CDも買って聴いた。


そして、ずっと田中先生の仰るような人生を生きてみたいものだと思っていた。しかし、サラリーマンではそんな生き方はなかなかできはしない。そんな思いが潜在意識の中に埋もれていたのだろう。40歳を過ぎて、盛和塾の塾生であった中小企業の社長たちから稲盛和夫さんをご紹介された。

稲盛さんとの出会いで、潜在意識の中に埋もれていた思いが頭を擡げてきたのだ。それは、ちょうど銀行に金融自由化の荒波が押し寄せてきた時だった。

私は、銀行の目指すところと私の想いにズレが生じてきたことを感じる日々を過ごしていた。あるトラブルがあり、銀行とぶつかることがあった。


そして、45歳になる前に、清水の舞台から飛び降りるように銀行を中途退職したのだ。


そして、今の私がある。

田中真澄さん〜稲盛和夫さんとの出会いが今の私をつくっている。


①古稀を機に、生前葬&出陣式を取り行った。第一の人生(その成功と失敗の経験)の高下駄を履いて、第二の人生を生きていこうと思う。


②その第二の人生は、決して下り坂の人生ではない。さりとて、若い時にしたような、垂直登攀の登り坂の人生でもない。私の第二生は、汝自身を知って、人との和の中で、彼らたちの力を借りることによってオールラウンダーになり、ゆっくりと、ゆったりと、世のため、人のために生きる、緩やかな上り坂の人生を送りたいと思う。


③西郷南州遺訓の第30番には、「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕末に困るもの也。この仕末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり」とある。この歳になって、何に価値があるのか、どんな生き方が幸せな人生なのか、ようやく分かってきたように思う。もうブレることはない。私なりの、そんな"仕末に困る人生"を送りたいものだと思う。


④私の第二生のミッションは、"能登の創再生"の応援団長になることだ。東大応援部で、"応援とは何か"を追求(追究)することを始めてから半世紀以上が経つ。漸く、私の応援は"ふるさと能登"にあるのだと、そのために今までの半世紀があったのだと思う。


能登の地で、私の第二生の命を燃やそうと思う。


不動院重陽博愛居士

(俗名  小林 博重)

 
 
 

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